荘川桜
岐阜県高山市荘川町の国道156号線沿い、御母衣湖の湖畔には、2本の桜の巨木がたっています。
この桜は、旧 荘川村の中野照蓮寺および、当光輪寺の境内にあったもので、樹齢400年とも言われるアズマヒガンザクラです。
その高さは30m、幹の周りは6m、重さ40トンの巨大な桜で、当光輪寺の創建の頃に植えられたものと伝えられています。御母衣ダムと共に湖底に沈むはずだったこの桜たちが、湖畔に移植されたのは今から半世紀以上前のことでした。
昭和27年10月18日、政府は御母衣ダムの建設を発表しました。
荘川村にとっては、予想だにしなかった突然の出来事で、村の3分の1に当たる中野校下地区が全て湖底に沈むこともあり、地元ではダム反対運動が起こり、電力会社と住民団体との間で長きに渡り交渉が続けられました。
様々な紆余曲折を経て荘川村はダム建設を受け入れることになり、昭和34年の秋には地元の反対期成同盟死守会が解散されることになりました。電源開発会社初代総裁の高崎達之助氏はこの式典のため荘川を訪れ、目にしたのが光輪寺の桜の巨木でした。
自然を愛し、植物を愛した高崎氏は、この桜が湖底に沈むことを惜しみ、なんとしてでも桜を救わねばならんと思い立ち、専門家を訪ね歩くことを始めます。数々の専門家に断られ続ける中、桜博士と言われた笹部新太郎博士のことを思い出し、高崎氏は神戸まで赴き笹部博士に移植に手を貸してくれるよう頼み込みました。
樹齢400年以上の老木の移植など、世界にも類がないことだと、自分が70歳を超える高齢であることもあり、笹部博士は一度は依頼を断ります。しかし、高崎氏の、私財を投げ打ってまで水没から桜を守りたいという、切々たる愛情と、自宅が水没する住民へのせめてもの償いを、との懇願を無下にすることはできませんでした。
笹部博士と共に電発会社の協力も決まり、光輪寺桜と、照蓮寺桜の移植が始まりました。
移植計画は、500人以上の作業員と15トンのブルドーザー、クレーン車2台、30トンのブルドーザー2台、40トンのブルドーザー2台を投入、笹部博士の懇請に心を動かされた、当時日本一の庭師 丹波政光棟梁も加わる、植物史上かつてないほど大掛かりなものでした。
桜は樹幹や枝を藁縄で丁寧に巻き、地面に100mも張っている根を伐られ特注の鉄の橇に乗せられました。桜の輸送のためだけに作られた道路は、山の中腹までの約200m、約1㎞。その道を、ブルドーザーでコロを使って橇を少しずつ引きずり、40トンを超える桜を湖底になる村落から引き上げたのです。
桜は、枝を伐るだけで枯れてしまうと言われる繊細な植物です。無事に新しい土地に根付くかどうか、皆の注目が集まる中、翌年の春、細い枝に小さな芽をつけました。
それから日を追って桜は元気になり、現在ではかつてのような姿で毎年ダム湖に美しい花を映し、荘川桜と呼ばれるようになりました。
ダム完成と共に関市に移転した光輪寺でも、春になると荘川桜から枝分けした二世桜が満開の花を咲かせています。