プロ野球審判が見た「仏教」

読売新聞の記事に、29年間勤めたプロ野球審判員を退職し、群馬県館林市で300年続く実家の寺(真宗大谷派・覚応寺)の住職となった佐々木昌信さん(53)の第2の人生を紹介するものがありました。

この記事の中で、
「プロ野球での経験は、仏に仕える道に通ずることもある」と語る佐々木さんが、仏教とは何かを問われ、プロ野球審判員時代のエピソードを交えてこう答えています。

「思い通りにならないのが人生であり、その人生を学ぶのが仏教です」

人間には怒り、妬みなどの感情がある。失敗して他人のせいにすることもある。思い通りにならないときにはどうするか。自己を学んで自己と出会うことだと佐々木さんは説きます。

審判をやっていても、自分の思い描いたようにはならない。例えば、ショートゴロで打者走者は足が遅い。楽々と一塁アウトとなる場面だが、遊撃手がお手玉をする。クロスプレーになると思い、慌てて定位置より前に近付いて視野がずれてミスジャッジをしてしまった。審判は必ずしも近くで見れば良いというわけではない。得策と思い普段と違う距離で見たことがミスジャッジにつながったのである。

しかし「彼がもたつくから自分は間違ったんだ、と人のせいにしてしまうのが人間。でも自分に原因があるのだから、内(自分)に向けて考えることができるかどうか。29年間、その繰り返し。仏教とまったく一緒だと思っていました」とのこと。

プロ野球でよく見かけるシーンの片隅に、人知れず審判員の悩みや葛藤がある。
佐々木さんご自身のプロ野球審判員としての経験と重ねられた仏教の解釈はとても分かりやすいですね。

とかく仏教の話は堅くて難しいといわれます。法話などでも、門徒の皆さんが日常生活と重ねて考えられるように、体験談やエピソードなどで、分かりやすく伝えるよう心がけたいものです。

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