一粒の麦

1878年(明治11年)7月2日、大阪府豊能郡萱野村(現・箕面市)の浄土真宗本願寺派水稲山教学寺の住職の子息として生まれる。13歳で得度する

1893年、京都西本願寺文学寮(現・龍谷大学)に入寮

1899年、文学寮卒業、開導中学(山口県)の英語教師として赴任

1901年、教師を辞して、仏教大学(現・龍谷大学)3年に編入学

1902年2月、仏教大学を中退して北京に渡り東文学舎に寄宿

1903年10月、土倉五郎と北京で雑貨貿易商「日華洋行」を設立

1904年12月、土倉五郎の依頼を受け軍馬調達のため内モンゴルに入る

1908年7月、内モンゴルのケシクテンにおいて〈酸乳〉を知る

1915年、春、中国におけるすべての事業を手放して帰国

これは日本の実業家・三島海雲氏の37歳までの略歴です。お寺の家に生をうけて僧籍を持ち、その道の学校に進学しながらも、その後の紆余曲折、波瀾万丈な人生前半の経歴を拝見しておりますと、とにもかくにも驚くべき行動力を持った人物であろうと想像できます。

そして帰国後、
1919年7月7日、わが国はじめての乳酸菌飲料を発売。彼は「カルピス」の生みの親となります。

その後、さらに発揮される彼の卓抜した行動力には一つの理念が根底にあることを知ることとなります。

・「初恋の味」というキャッチフレーズの採用

・有名な黒人マークは今でいう国際コンペで公募したものを採用。第一次世界大戦後のインフレで苦しむ欧州の商業美術家救済事業の一環

・関東大震災時に善意から無料で「カルピス」を配給

・子供たちのために、現在にも受け継がれる「カルピス」ひなまつりプレゼントの開始

・全財産を投じて「三島記念財団」を設立。自然科学、人文科学の分野の研究の助成を行う

この「三島記念財団」を設立するにあたり、

「お釈迦さまは、『一切の行動の効果を有するものは唯私欲を離れし、根本より生ずる』といわれました。私が今日あるのは先達、友人、知己、国民大衆の方々のカルピスに対する惜しみないご声援によるものです。したがって得られた財物は一人 三島海雲のものではありません。あげて社会にお返しすべきです。」
さらに、
「本財団の基本金はきわめて僅少です。しかし、創設者 三島海雲の現有全財産を注入したものです。その狙うところは、私欲を忘れて公益に資する大乗精神の普及にあります。広野に播かれた一粒の麦になりたいのです。」

彼が残した言葉です。三島海雲氏の生涯の行動力の礎には、若かりし頃に親しんだお釈迦さまの仰せに習った確固たる理念があったんですね。そして、商品名「カルピス」はサンスクリット語の仏教用語が語源でもあります。

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